逃走論―スキゾ・キッズの冒険 (ちくま文庫)

わが逃走

2014年頃からポストモダニズムの本を読む機会が増えました。しかし、そもそもポストモダニズムは私にとって、とても苦手な分野で避けていたので解らず困っていました。そんな話を父親としたところ、浅田彰の「逃走論」を勧めてくれたので読んでみると、とても面白かった。特に、最初の数十ページ、「スキゾ・カルチャーの到来」、パラノ型、スキゾ型の箇所をよんですっきりしました。

この本の中で浅田彰は、パラノ型を偏執型、ひとつのところに腰を落ちつけて一家を構え、それを中心にテリトリーの拡大を図る、社会のなかでは追いつけ追い越せの熱心なランナーである。そして、スキゾ型を分裂型、つねに身ひとつで動き回り、いざというときには一目散に逃げ去る。追いつけ追い越せの競争に追い込まれたとしても、とんでもない方向に走り去ってしまう、と書いていますが、パラノ型の社会があまり馴染めない私にとっては、スギゾ型の説明は魅力的で納得がいきました。この本が出版されたのは1986年、約30年も前で、当時の時代背景もあり、浅田彰はスキゾ型を「逃走」という言葉で表現したのだと思いますが、この言い方は今の自分、そしてそれを取り巻く社会との関係性を考えてもしっくりする気持ちのいい響きだと感じました。

ただ、私は、はスキゾ型の生き方に憧れがあるのですが、完全にはそれに成りきることができないだろう難しい点が少なくとも二つあります。一つは、母性から逃げることは女性という性から完全に逃走することであり、最終的に同性愛になるということ。もう一つは、日本で生まれ教育を受け、大人になった私には、家庭や競争にたいする義務感が少なからずあり、そのパラノ・ドライブ化された資質は、どう頑張っても完全に取り除くことはできないだろうということです。パラノ化されたスキゾ人間。もしかしたら、そういう人は私だけでなく実はたくさんいるのかもしれません。私には、ただ無意識にその状態を楽しんでバランスのとれる人が羨ましい。私は、意識的にその術を身につけなければいけないだろうと思います。パラノ型的性格とスキゾ型的生活の憧れの間で、もがかなければならないだろうといことです。このもがきが、ぼくの逃走であり自立の確立だといいたいところです。 

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